わたしたちの問い
永井玲衣
あなたには、問いがあるだろうか。見ないふりをしてきた問い、もうずっと忘れていた問い、「どうでもいいから」と抑え込んでいた問いは、あるだろうか。
哲学対話と呼ばれる場では、そんな問いが、はっきりとした言葉にならないままに、わたしを絶えず揺さぶってくる。哲学対話とは、人々と問いのもとに集い、世界に問いをなげかけながらじっくり考える場のことだ。話すだけでなく、よく聴きあい、手をのばして探究を重ねる。そこで取り扱われる問いは、むずかしいものである必要はない。哲学は何もバカにしないからだ。普段は意識にのぼらず、どうでもいいとされ、取るに足らないとされているものについても、存分に考えることがゆるされる場が哲学だと信じている。
だが、こうした場をひらくと実感することがある。わたしたちはよく、考えることに慣れていないとか、ひとびとと話すことに慣れていないのだと言う。わたしもはじめはそう思っていた。しかし、そうではない。わたしたちは、考えるということ、ひとびとと集まって話すということに、深く傷ついている。 何かを誰かの前で、誰かと共に、決断すること、選ぶこと、考えること、話すこと、そうしたひとつひとつに、わたしたちは深く傷ついてきている。自分の考えを馬鹿にされたり、きちんと聞かれなかったり、ないがしろにされたり、多かれ少なかれそのような経験を小さく、小さく積み重ねている。
もしくは、何か「いいこと」を言わなければならない、立派な考えをもっていなければならない、間違えてはいけない、と自分を責め続けている。まさかこんな自分に「考える」なんていう贅沢な資格は、あるわけがないと思っている。あなたは言う。自分には明確な主張がないから、参加することができないと。社会問題や哲学的なことがらについて考えてはいけないのだと。集ったひとたちは、どこかで自信がなさそうに身を縮こめて微笑んでいる。その控えめな微笑みに、わたしは自分の姿を投影する。そう、わたしも「明確な主張」などないのだ。堅牢で、はっきりとした輝かしい考えなどない。なぜならそれは、他者と共に練り上げられるものだからだ。
勝ち負けを競い合うような「議論」と呼ばれるものは、理性的でつよい主体というものが前提になっているように思う。そこでの主体の手元には既にカードがあり、相手と向かい合って座る。相手がスペードの3を出したのならば、わたしはダイヤの5を出す。それを見たあなたがクローバーの8を出すから、わたしは相手の手札を想像しながら、ハートのクイーンを出す、という風に。まなざしは相手の顔ではなく、手元のカードに向けられている。カードの内容はもう決まっていて、あとはどのタイミングで、どのカードに対してそれを出すかを考えればいい。
しかしわたしたちの手には、本当はカードなど握られてはいない。むしろ対話を始めると、カードだと思っていたものは、全く使い物にならないことに気がつく。ひとと話せば話すほど「つよい主体」というものが疑わしくなる。むしろこのわたしという何かは、他者によって揺さぶられ、他者によって問われ、他者によって考えさせられる。
わたしたちはとても壊れやすい。傷つきやすい。弱い。考える、ということすら、なかなか簡単にはいかない。ままならない。だからこそ、大丈夫と思える場をつくらなければならない。脆いからこそ、共に考える。弱いからこそ、考える場を整えようと試みる。互いがもっと自由になるために、より自由になるために、わたしたちは手を離してしまうのではなく、手をとりあわなければならない。
あなたの言葉をよく思い出す。あなたは、不安を抱えていた。自己啓発本をたくさん読んで、悩みを解決しようともがいていた。だが哲学対話に参加して、あなたはそれを望んでいなかったことに気がついた。「自分は答えがほしかったんじゃなくて、誰かと一緒に考えたかっただけだった」とあなたは言った。
問いは重い。ひとりで抱えるには、とてつもなく重い。だから、問いを一緒にかついでくれる他者が必要なのだ。問いはきっとなくならない。だが、それを他者の前に差し出すと、少しだけ軽くなる。これは自分だけのものではないと、指の先にあたたかさがともる。
「わたしのままお母さんであることってできるのかな」と、いつかの哲学対話で誰かがつぶやいた。言葉は泣いていた。その言葉は、ひとりで抱えているあいだは、そのひとの悩みとして個人化されている。だが、悩みが言葉になり、言葉はみんなの問いになった。問いはひとびとをつなぎ、そこにいるひとたちで、水中に潜るように考えた。
わたしたちの生はままならない。社会は複雑で、不確実で、混沌に満ちている。みじめさを思い知らされることも多い。だが、問いのもとに、ひとびとは集うことができる。共にその問いについて考えることができる。あなたがあなたのまま、わたしがわたしのまま、共に考えることができるはずだ。
孤独に身体が押しつぶされそうになるとき。漠然とした不安に心がどこかへ行ってしまいそうになるとき。ゆらめいていても、言い当てていなくても、言葉にしてみよう。問いにしてみよう。あなただけの不安が、わたしたちの問いになる。
あなたには、問いがあるだろうか。見ないふりをしてきた問い、もうずっと忘れていた問い、「どうでもいいから」と抑え込んでいた問いは、あるだろうか。
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