花と鯨

神野紗希

夜、ふと目が覚めて、水を飲むために階下に降りる。人間は、体の六十%が水で出来ているらしい。生まれたときにはもっと比率が高くて、赤ちゃんの水分量は七十五%。その存在の四分の三は水だった私たちも、年を重ねるにつれ、だんだん渇き出す。

水涸れて夜の明るいほうが町

花びらも新月のひかりもBlue

冬は眠たい 水の息 風の息

喉を真水が落ちてゆくとき、鯨のよぎる気配がする。夜の闇は、海に似ている。青いあかつき、しろじろと日が差してくるまで、リビングは海底の静けさ。体に水がゆきわたる。目をつむり、風の音に呼吸を合わせ、私は鯨と沈んでゆく。

抱く腕も凭れる幹もなく鯨

Midnight 鯨は花の香を知らない

博物館で、鯨の骨格標本を見た。彼らの胸の鰭には今でも、陸上で暮らしていた名残で、五本の指の骨が埋まっている。鯨が海を選んで数千年。手はいつしか鰭となり、抱き合うことはかなわない。海の中はどこまでも水だから、もたれて休むこともできない。数十分おきに息つぎが必要で、脳を半分ずつ眠らせ、つねに泳ぎ続けているらしい。うっかり熟睡したら、海の底へ深く深く落ちていってしまうのだろうか。かつて陸地で嗅いだ花や草や木々の香りは、鯨のDNAの奥底にまだ眠っているだろうか。

雪の岸 鯨の鰭に五指の骨

手の記憶 菜の花はあたたかかった

ひとつぶの銀河すなわち鯨の眼

二千三百万光年彼方には、鯨銀河と名づけられた星々のあつまりがあり、周りには銀河の化石があるという。なんでも、大きな銀河と合体するとき、小さな銀河は壊れてばらばらになる、そうして残された星々を銀河の化石と呼ぶらしい。宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』のはじまりでは、先生が星座の図を見せ、子どもたちにこう問いかける。「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」乳の流れたあと、ミルキーウェイ。ギリシャ神話では、天の川を、女神からあふれた母乳だとみた。ならば、鯨銀河から流れ出した星々のひかりは、鯨の母親から流れ出すあたたかなお乳なのかもしれない。

鯨の母乳けぶるよ化石銀河群

海面をほしぞらとして鯨の子

もし、私が鯨だったら。深く澄んだ青の世界。見下ろせば暗く常闇が沈み、仰げば水面はきらきらと星空のように輝く。感染症の流行であの人この人と隔たった日々、人間も人間に逢いたかった。寂しい、逢いたい。寂しい、逢いたい。きっと、鯨も鯨に逢いたくて、広い海原をどこまでも歌ってゆくのだろう。

マスクしてコンビニへ行く月を撮る

明日もある膝掛を小さくたたむ

月ぽつん 鯨に逢いたくて鯨

私だったかもしれない鯨が、静かになめらかに、海の奥へ去ってゆく。もうすぐ朝日が差す。星々は淡く空のひかりに溶けはじめ、私に人間の輪郭が戻ってくる。

海原が どくん 鯨を どくん 闇

星淡く霜解けて花匂い出す

細胞は鯨の歌を覚えている

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