9歳の鼓動、6歳の鼓動、1歳4ヶ月の鼓動。39歳の妻の鼓動。そして41歳になる自分の鼓動。それぞれに異なったリズムで鼓動が響いている。
薄暗い中、手のひらで弾ける鼓動を感じていると、かつて感じた母や父の鼓動、祖母の鼓動。いなくなった祖父、友人たちの鼓動もが地続きになって鳴りだす。
肌で感じ、目で見て、手で触れる。
ぼくが、子どもたちにできることは、この肌を通じて「生きた声」を常にそそぐこと。そして、自分自身にも刻みつけること。
言葉は軽くなり、意味を失うことがある。だが、肌に刻まれる「生きた声」は消えない。
ぼくの手が、君の胸に触れるとき。
ぼくの鼓動と君の鼓動が重なり合うとき。
そこにあるのは、世界にひとつしかない「生きる声」。
触れることで知る「生きた声」こそが人を深いところで救いあげる本当の現実なのだろう。
夜、ポリフォニーのように重なる鼓動の世界に包まれる。
その中で、ぼくは言葉以前の「生きた声」を聴いている。