essay連載 『人肌、 山肌、 地肌』

Vol.02

生きた声

updated 2024.12.15
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Harumichi Saito
写真家
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1983年、東京都生まれ。写真家。都立石神井ろう学校卒業。2020年から熊本県在住。陽ノ道として障害者プロレス団体「ドッグレッグス」所属。2010年、写真新世紀優秀賞(佐内正史選)。2013年、ワタリウム美術館にて新鋭写真家として異例の大型個展を開催。2014年、日本写真協会新人賞受賞。『よっちぼっち 家族四人の四つの人生』で熊日文学賞受賞。

長男と次男がまだ小さかったころのこと。夜にふと目が冴えてしまうとき、寝息を立てている家族の胸に手をあてる時間があった。

どくん、どくん、と鼓動は響く。

ぼくは、ろう者である。音を実感したことはない。だが、ぼくには手があり、肌がある。胸に手を置いたときの「どくん」と連続する鼓動は、響きをともなった「生きる声」だ。

このふるまいは、ぼくにとって大切なものになっていて、3子が生まれた今もときどきやっている。

ぼくらは手話で話す。動きとともに意味が紡がれ、目の前で、その人の存在を抜きにしては語ることのできない言葉が生まれていく。

しかし、子どもたちは聞こえる。彼らは音声言語を耳で聴き、声を出し、ぼくにはない「音の世界」をも生きている。

手話と音声、視覚言語と音声言語――ふたつの世界は交わりながらも、ときにズレる。

手話には手話の速さがあり、音声には音声の速さがある。成長していく子どもたちの姿を見ていると、手話の語彙と、音声の語彙の間で、迷う瞬間が見られる。

ときに、ふたつのリズムが絡まり合って、言葉の絶えた沈黙の時間が生まれる。この沈黙には、いつもどこか切ないものを感じずにいられない。

だから、ぼくは沈黙をただ言葉が途絶えた荒野だとは思いたくないのだ。

沈黙は、言葉を語るよりもずっと前の「ことば」以前の世界へ誘う扉だと、信じたいのだ。

生まれたばかりの子どもを、三人とも裸の胸に抱いたことがある。羊水と血の混じる匂い。肌に感じた、ぬるりとした温かさ。その瞬間、生まれたばかりの命が放つ、言葉なき「ことば」がぼくの中に沁み込んだ。子どもたちもまた、この肌を通じて、鼓動を通じて、ぼくの「ことば」を受け取ったはずなのだ。

こうした肌を通じてそそがれてくる、沈黙に限りなく近い「生きた声」の力を信じたいのだ。

9歳の鼓動、6歳の鼓動、1歳4ヶ月の鼓動。39歳の妻の鼓動。そして41歳になる自分の鼓動。それぞれに異なったリズムで鼓動が響いている。

薄暗い中、手のひらで弾ける鼓動を感じていると、かつて感じた母や父の鼓動、祖母の鼓動。いなくなった祖父、友人たちの鼓動もが地続きになって鳴りだす。

肌で感じ、目で見て、手で触れる。


ぼくが、子どもたちにできることは、この肌を通じて「生きた声」を常にそそぐこと。そして、自分自身にも刻みつけること。

言葉は軽くなり、意味を失うことがある。だが、肌に刻まれる「生きた声」は消えない。

ぼくの手が、君の胸に触れるとき。

ぼくの鼓動と君の鼓動が重なり合うとき。

そこにあるのは、世界にひとつしかない「生きる声」。

触れることで知る「生きた声」こそが人を深いところで救いあげる本当の現実なのだろう。


夜、ポリフォニーのように重なる鼓動の世界に包まれる。

その中で、ぼくは言葉以前の「生きた声」を聴いている。

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essay 連載
「人肌、 山肌、 地肌」
Vol.02 Harumichi Saito